刺客を送られた男の「小泉純一郎論」
小泉刺客、正か邪か
第2章 誰も気がつかなかったが小泉政権誕生の序章は95年に始まった
■厚生大臣、郵政大臣時代
「自民党もお粗末だが他の政党はもっとお粗末だ。だから私は自民党を出ないのだ。」とすぱっと言い切った小泉厚生大臣(1988年―89年)は当時将来の総理総裁候補と目されていたか。当時の幹部の一人はこう述懐した。「妙なことばかりいう大臣だった。カタカナ語を使うなといって、すべて漢字の言葉に直さされた。リハビリをどう漢字にするか。弱ったものだ。将来総理になるだろうとは夢にも思わなかった。」
小泉さんは1992年に郵政大臣になった。郵政民営化を主張する大臣に対する官僚の反応はどうであったか。当時、大幹部の一人だったある男は、「私が小泉大臣の大臣室に入ったのは、在任期間中4度だけだ。1回目は就任挨拶のとき。4回目が離任の挨拶の時。そしてその間に2回大臣室に行っただけだ。」と思い出を語る。
官僚の反発は郵政省の場合、当然相当に強かったのだろう。しかし、官僚の言いなりにならないのが小泉さんの真骨頂だということが今になって見れば明らかである。官僚を自分の意のままに働かせ、自分の政策を実現する。これこそが小泉さんの考え方、やり方であったのだ。だが、大臣の時は、小泉さんの思いどおりにはいかなかった。しかし、総理になれば話が違う。小泉さんは総理大臣になって積年の思いを一気に実現したと見ることが出来る。
■官僚支配vs政治主導の戦い
官僚支配vs政治主導の戦いを歴史の垂直軸で見ると、その根は深い。世界の水平軸で見ても当然普遍的な戦いである。例えば、イギリスで政治主導を確立するために、閣内大臣、閣外大臣合計で110人を超える大臣が居るの見ても膨大な官僚機構に対する政治主導の戦いの難しさが見て取れる。
しかし、ここは日本の歴史の垂直軸だけを座標に取ろう。官僚支配の原型を作り上げたのは、藩閥政治家山形有朋だ。1899年(明治32年)に、時の総理山縣有朋は、文官任用令を改正するとともに、文官懲戒令及び文官分限令を公布。官吏の任用資格を厳重にするとともに官吏の身分保障を実現した。
政党の勢力が官僚組織の中に浸透するのを防止するのが目的であった。与党の憲政党は激昂したが、山県は内務次官松平正直を直接の責任者として罷免するとともに深野地方局長、小倉刑保局長を転任させ、事態を鎮めた。
政治家、政党は党利党略、日本の政治を任すわけにいかないと山縣は考え、東京帝国大学卒業者を天皇の官吏の中核に据え、活躍の場を与えた。
身分を保障された官僚は、独自のエートスを確立、頼りない政治家に日本の政治を任すわけにはいかない。自分たちで政策を決め、大臣を動かし、国会を動かし、法律を制定してもらって、その法律を実施して国を治める。この官僚の使命感と実力、実行力を遺憾なく発揮させた体制は、功罪相半ばするものだと言える。日本の近代化には確かに多いに貢献した。しかし、政治、選挙を通して示される国民の意思を貶めることによって、当時の世界の潮流に流されたとは言え、軍の台頭を抑えることが出来ず、太平洋戦争の悲劇を防ぐことが出来なかった。
■日本文化となった政党への不信
山縣有朋の考え方の背後には薩長の藩閥政治を守りたいとの意識が無意識の中にも働いていたと思われるが、彼の考え方は日本文化の中に教育を通じて広く普遍的に浸透して来た。
「不偏不党」という言葉がある。「不偏」は確かに争う余地無く正しい。しかし、「不党」も正しいと信ずるのはどうか。
人事院は公務員であるから、不偏不党であり、中立であるが、政党の組織する内閣の政策は中立でありえないとの趣旨の議論が「公務員制度改革」の論議の中で人事院総裁の口から繰り返されるのを聞いて、当時小泉内閣の内閣府副大臣・総理大臣補佐官であり、公務員改革も担当していた私は、委員会の答弁席に同席しながら、山縣の意図は日本文化になってしまったなと苦笑せざるを得なかった。
本来部分である政党が政権を掌握して、「不偏」の政策の実行につとめ、政権を長く保とうとするダイナミックな「不偏」こそが国民に支持される不偏即ち中立公正なのだとの理解を日本文化の中に浸透させる必要を痛感する。
■総理大臣が政治主導を決意し実行すれば・・・
近年の「政治主導」の流れはそれを少しずつ実現しつつある。しかし、総理大臣が政治主導を決意し断固としてやることとすれば、小泉改革、小泉革命になるのだ。個々の政策の賛否は議論の余地が多いにある。しかし、この歴史の垂直軸から見た大きな流れから見ると小泉革命は評価せざるを得ないであろう。日本国憲法は国権の最高機関として国会を規定している。国民が主権者であり、主権者が選挙で選んだ国会議員が法を制定し、総理を選び、総理が大臣を任命し、官僚機構を使って国を治める。その総理がリーダーシップを発揮して国民の意思を実現するのだ。至難の技ではあるが、日本の官僚機構の優れた人材とエートスを生かしながらそれを実現できれば日本はさらに飛躍することが出来るであろう。
■小泉政権誕生への序章
小泉さんが総理総裁への意志を初めて明らかにしたのは95年9月22日の総裁選挙である。
94年6月29日に自社さきがけの村山富市連立内閣が成立し、11ヶ月振りに自民党は政権に復帰したが、95年9月の自民党総裁選挙を前にして、河野洋平総裁(当時村山内閣の外務大臣)では総選挙は戦えないとの声が強くなり、我々は派閥横断的な中堅・若手議員の集まりである「橋本龍太郎総裁を実現する会」を組織し、総裁選挙に備えた。
政策論争を中心に据え、テレビで国民に政策を堂々と訴え、明るく透明な国民に開かれた自民党総裁選挙を実施すべく、着々と準備を進めていたが、突然の河野総裁の出馬辞退の声明があり、驚き、「河野総裁は、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあったのだが……」と私の当時の「国会短信」に書く程に当惑していたところ、「ばっさり切られると分かっていても男は戦わなければならない時がある。」という名セリフを吐いて、小泉さんが総裁選に名乗りを上げてくれた。
小泉氏立候補で自由民主党の新しい歴史が始まったとその「国会短信」で私も絶賛している。早速2人の間で、郵政民営化、郵便業務への民間参入等も一つの争点にした正々堂々の議論が始まり、テレビ、新聞等も積極的に取り上げてくれた。党員のみならず、国民に開かれた自民党の誕生と我々若手は多いに喜んだのである。その熱のこもった弁舌に「小泉、いいじゃないか!」との声は出たが、小泉さんが本気で政権を取る決意を内に秘めており、小泉革命を目論んでいたと感づいた者は当時誰一人居なかった。
この総裁選で自民党は確かに生まれ変わった。派閥の領袖でもない候補者だけが総裁候補になったことも画期的である。また、派閥横断的な中堅・若手議員の集まりである「橋本龍太郎総裁を実現する会」の第3回総会の閉会近くに特別参加の戸井田三郎議員が、「これまで自由民主党は総裁選があるたびに汚されてきた。しかし、今回の総裁選は違う。皆が金を出し合って、手弁当でやっている。これは本当に素晴らしいことだ。最後までこの姿勢を貫き、今後の我が党の流れとしなければならない」との趣旨の演説をしたのが印象的であった。
そして、当時は誰も気付かなかったことだが、95年の総裁選挙こそ、実は小泉政権誕生の序章だったのだ。
この総裁選は、橋本龍太郎候補の圧勝に終わった。橋本票304(国会議員票239+党員票65)、小泉票87(国会議員票72+党員票15)であった。
98年7月24日、参議院選挙の敗北の責任を取って橋本総理が退陣した。後継総裁の選挙が両院議員総会の場であり、小泉さんは、ここでも小渕恵三候補225票、梶山静六候補102票、小泉純一郎候補84票と苦杯を喫している。99年9月の総裁選は出馬せず、そして三度目の正直の2001年4月の総裁選挙で地すべり的勝利を勝ち取るのである。
(以下次号)
*月刊誌「力の意志」2006年4月号掲載。大幅な加筆や修正があることをお断りします。